| 小学校高学年だったと思う。我が家は3人兄弟でわたしが長男、2歳違いの妹と7歳違いの弟、とおふくろの4人家族・・・じゃない!おやじをいれて5人家族だった。
おやじはわたしにとって他の家族よりなじみのない人だった。あまり家にいなかったからでもあるが、職業上そうなんだと言う事は自分自身が社会に出てみて気付くまでわからなかった。彼は別に怪しい職業だった訳ではない。れっきとした地方公務員(新潟県)で、ただ、職業が特殊であっただけだ。水産試験場というところに勤務していた。
最終職歴?は漁業調査船××丸(現存している船なので名前はひかえさせていただきます)の機関長だった。ずっと長い間、機関長だった気がする。物心ついたころはおやじの同僚たちから(部下?)機関長と呼ばれていたし、それが船長の次にえらいということも耳タコだった。
どんな仕事をしていたかというと、これもずーっとあとになってからわかったことだが、魚の群れがどこからきてどこへいくかとか海洋の水質調査とかを当然海洋に出ておこなって、それを漁業組合に教えてやったり、研究したりということらしい。らしいというのは未だによくわからんのです。
ただ、試験操業といって実際に網を入れて魚を採っていたらしく、よく魚を家へ持って帰っては料理していた。つみれとか(そういえば魚のつみれ事件というのもあった)イカやカニもよく持って帰って来た。 あなたは魚派?肉派?と聞かれれば迷わず肉派と答えるだろう。
カニ以外のおやじが持ち帰る魚類はわたしはことごとくきらいだった。兄弟の中で徹底して魚嫌いだったのはわたしくらいだろう。おふくろも含めて他の家族はみんなおいしいと言って食べていたような気がする。偏食というほどのことでもなかったが、いまでは魚嫌いではなくなった。煮魚以外は・・
つみれ事件(魚の)
そんな訳でおやじが一旦、試験操業とやらにでかけると(われわれ家族の間では「出張」と呼んでいた)長くて一週間、短くても3日くらいは帰ってこないので、その間我が家は母子家庭となるのである。どのくらいの割合で「出張」していたかわからないが、トータルすると一年のうち半分近くいなっかったような気もする。
(余談だが、これももの心つくまでおやじの勤務先を普通の家庭なら「会社」というところを「役所」と呼んでいた)つみれ事件とはおやじが毎回持ち帰る魚・・・なんの魚かは覚えてないが、おやじがすり鉢ですりつぶして団子にして味噌汁の中に入れるのだが・・・これをみんな「おいしいおいしい」といって食べるのだが、わたしだけは(どこが・・・こんな魚臭いもの)という思いで毎回、半強制的に食べさせられていたのである。
必ず、企てられたようにわたしの口にした団子には小骨があった。それ以来落語の「目黒のさんま」ではないが小骨のある魚を見ると鳥肌が立つ!ある日わたしはつみれの味噌汁を絶対飲まないと宣言した。おやじはわかったと言って。じゃあ最後にこれを飲んでみろこれには絶対小骨は入ってないからといって自分のお椀のなかのつみれをわたしによこした。
「もし、これに入っていたらどうすんだよう」もうすでに2個くらい食べて小骨の洗礼を浴びていたわたしは決意をこめておやじに言った。「それにもし骨が入っていたらもう食べなくていい」とおやじ「ほんとだな?」「ほんとだ」「一生たべなくていい?」「いいよ」
小学生の言う事である。このころよく・・・一生・・・という言葉を使ったような気がする。おやじも自身があったに違いない。なにせわたし以外のお椀のつみれは骨がない!妹も弟も小骨が咽につかえたなどとは言った事がなかった。わたしだけに魚の骨があたるはずがない。
そう思ったに違いない。料理人としての意地があったかどうかはわからないが(それだけは一生懸命自分で作っていた)100%ない!と確信していたに違いない・・・結果は?
わたしの勝ち・・・骨はあった。それからしばらくつみれの味噌汁はご遠慮させてもらった。が、いまでも何故わたしにだけ小骨入つみれ団子がよくあたったのか謎である。
その後、大人になってよそでつみれ入りの料理を出されたりすると、おそるおそる少しづつ噛んで口に入れるようになったのはこの幼児体験(?)のおかげである。今はさすがに食べれないと言う事はなくなったが、大人になってからは小骨に当たった事がない。
後日談村松にやはり県の水産試験場がある。中学のころ、おやじにつれられてそこへ遊びに行った。鯉を養殖していて「鯉こく」をごちそうになった。「めったに食べれないものだから」とおやじもおふくろも喜んでわたしにも(今食べておかないと今度いつ食べれるかわからないよ)的な脅しをかけて来たが、小骨むき出しの鯉料理を見て半分以上残してしまった。
料理してくれた人には悪いという気持ちが少し芽生えたが、今でもあえて「鯉こく」を食べにわざわざ出かける気はしない。おやじはその後、世間の食文化の変化のせいか肉も食べるようになったが、やはり魚派であることに変わりはない。そのおかげか70歳を過ぎても、入れ歯ではなく、全部自前の歯で虫歯が一本もない。
シチュ-事件
そんな訳でおやじが一旦、試験操業とやらにでかけると(われわれ家族の間では「出張」と呼んでいた)長くて一週間、短くても3日くらいは帰ってこないので、その間我が家は母子家庭となるのである。どのくらいの割合で「出張」していたかわからないが、トータルすると一年のうち半分近くいなっかったような気もする。(間違いじゃないよ前振りだよ念のため)
おやじが出張中(試験操業とやらで近海に船で出ている時)おふくろがはりきってクリームシチューを作ってくれた。今のように「ルー」のある時代ではない。本格的に作るとしたら長時間、野菜や肉を煮込んで・・ということになるのだが料理の本でも見たのか、そのころの我が家の食卓では考えもしなかった料理だ。
大きなアルミの鍋に(カレーを作る時もその鍋だった)どっさり作ってしまった。おふくろは上機嫌だった。ここまで書けば結果は想像できると思いますが・・・ 当時はどこの家庭にもあったと思うまあるい飯台のまわりで兄弟3人初めて見る(味わう)料理に興味しんしんだった。
みんなで一斉に皿にもられた白い液体の中ににんじんやらじゃがいもが浮かんでいるおかずに口をつけた。最初は黙って食べていたが、わたしは一口で吐き出してしまった。文字どおり吐き出したのである。それは今日われわれが口にするシチューとは見た目は似てるが非なるものだった。
牛乳の中に温野菜が入っている以外のなにものでもない。
食生活においては我慢強いわが妹、弟たちも一斉に文句を言いはじめた。「食えない・・・」弟は当時まだ小学校に入ったかどうかという年だ、小さいころから盆栽を趣味として、お祭りで買って来たひよこを可愛がるあまりお風呂に入れてわたしにげんこつされていた。
ちいさいころは年も離れていたせいもあって、妹も可愛がっていたし、その恩に報いるためか、家族に対してあまり抵抗するような子ではなかったが、そのシチューだけは食えないと言った。おふくろは烈火のごとく怒った。(もともと当時はよく怒る人でわたしが悪戯やなんかするとよく外に閉め出されたものだった。
妹や弟にそんな仕打ちをしたことがなかったから、あれはわたしに長男としての自覚を持たせるための教育の一貫なのだと好いふうに解釈しよう)鍋の蓋を思いきり閉めて(アルミ製だから音はうるさい)「もう食べなくていい!」と鼻を曲げてしまった。
そりゃそうだ。本人は一生懸命作ったのだろうとその後の料理の腕の進歩具合を見てもわかる。あの当時おとなしかった弟でさえそのシチューに関してはニ度と食べたいとは言わなかった。
まあるい飯台を囲んでしばらく沈黙が続いた。みんな下を向いて妹は泣いていた。おやじでもいればとわたしは思っていた。おやじははたしてうまいというだろうか?魚しか食べないようなおやじはこれを口にしたらなんて言うだろうか?「プーーーー」ふと、弟がおならをした。長いおならだった。おやじのいない母子家庭一家は一斉に吹き出した(笑)
後日談
その後、ハウスクリームシチューが出るまで我が家の食卓にシチューが出る事はなかった。結局おやじはあのシチューの存在すら知らなかったに違いない(その前におふくろが証拠隠滅した)おふくろはおやじは魚しか食べない人だからわざと出張の時に作ったんだと思う。
ハッキリ言うがおふくろは味音痴だ。それでは料理はうまくならないのは当然なんだけど、マクドナルドハンバーガーが初めて新潟にできた時、大量に買い込んできて、おいしいから食べろ食べろと家族中に勧めていた人だ。その頃にはみんなとっくに味は知っていた。
弟も・・・ただ、わたしにとってこれだけはわたしも含めて他の誰よりもおいしいと思うおふくろの料理がある。それはなす漬けと枝豆なすの漬け方かた(ミョウバンと塩の加減&食べる時期)は未だにわたしにはわからない。枝豆も、豆選びから茹でた後の塩の振り加減が謎だ。
それ以外のおふくろの料理はお勧めできない・・・というより「ない!」といったほうがいい!たぶん、一般的な料理はわたしの方がうまいと思う。
大学の頃ウインナーのベーコン巻きを作ってやったらホントにうまいと喜んでいた。あれはお世辞じゃなく本音だ!40歳代からあそこが痛い、ここが痛いだの「わたしは長く生きられない」だのといってたわりに70歳すぎても生きている。 |