□新潟市山田 焼き鮒(やきふな)

以前は新潟県西蒲原郡黒崎町山田という地名だったが、黒崎町は新潟市と合併したため、現在は新潟市山田という。

石碑が一本建っているだけで、他は何もない。回りはというと目の前を道路が一本通っているだけだ。(右写真参照)何も撮るものがないので、仕方なく道路を撮影した。  
□親鸞聖人の逸話

建暦元年といっても「ピン」と来ないでしょうから、西暦1211年(今から800年ほど前)のことです。それも11月ということまでわかっているから、歴史学者はたいしたものだと思う。ただし旧暦であれば、現在の新暦では年末ということになります。

親鸞聖人が越後へ流されてきたのは、いわば都から追い出されたわけで、事実上は流罪です。ただし、ある程度自由な形の罪人だったので、江戸時代の「関八州所払い」(江戸やその近辺には近寄らないでね)みたいなものだったのだろうと思われます。あるいは(越後から当分出ないでね)見たいなものかな。最初に国府(上越市)に住むが、この時に板倉町の女性(恵信尼)と結婚している。それにしても800年前の越後は流刑地か・・・。

さて、建暦元年(西暦1211年)に罪を許されて(おーい、都へ帰ってきてもいいぞー)ということなんだろう。しかし、親鸞聖人は都へは戻らなかった。

先に述べてある「鳥屋野(とやの)」と「山田」は信濃川を挟んで対岸同士の位置に当たる。つまり、鳥屋野を出て、信濃川を小舟でちょいと渡れば山田に着くのである。

「鳥屋野」や「山田」地区は、もともと親鸞聖人の布教範囲だったらしく、近在の信徒たちと山田で宴を催した。その際、焼いた鮒が出されたが、親鸞聖人は、まず自分の着ていた袈裟を傍らの楠木にかけ、

「わがが、真宗のみ法、仏意にかない、念仏往生間違いなくんばこの鮒、かならず生きるべし」

「私がみなさんに教えている宗教が、仏がお認めになって、念仏を唱えることにより往生できるならば、この鮒は生き返るでしょう」(勝手に現代語訳)

と言って、近くの山王神社境内の池に放したところ、不思議にも鮒は生き返って泳ぎだしたと伝えられている。それ以来、この辺で獲れる鮒には、焼いた跡のように黒い色が残っているとのこと。

この逸話には、さらに後日談があり、寛政八年(西暦1796年)に山王神社境内の大楠木が大風で倒れてしまったので切ったところ、その切り口に親鸞聖人と焼鮒の形が現れたので、山王神社の神官、田代家に安置したということです。

焼鮒の図柄(上)と親鸞聖人の図(下) 親鸞聖人が袈裟をかけた木は「榎」(えのき)と言う説もある本文中では「楠木」(くすのき)と書いた。どちらかははっきりしないが、とにかくその後、何百年かあったわけだから、そうたやすく枯れない、大木になる種類の木だったのだろう。「図柄」はそう見れば、そう見えないこともない。というのが率直な感想だ。

残念なことに、昭和23年(西暦1948年)に火事にあい、親鸞聖人像の方は焼けてしまった。現在は焼鮒の方のみ、田代家に祭られているそうだ。

画像:郷土黒崎の歴史探訪より

□勝手な解釈

ここでも、いろいろな不思議に出会う。死んだ鮒が生き返るというのも不思議だが、わたしには別のいくつかの疑問がある。まず、仏教という宗教を教え広めている親鸞聖人が何故神社で宴を開き(あるいは開いてもらって)そこで、一種のパフォーマンスを見せなければならなかったのか。布教のための「奇跡」というものが大概の宗教にはある。それは宣伝効果をもたらし、「教え」あるいは「教祖」を有名にするのにもっとも有効な手段であることは納得できる。だが、そのTPOがよくわからない。神社側としては迷惑だったのではないか?

とりあえず、暴論かもしれないが、当時、仏教は「生」や「死」というものに対しての語りかけが主としよう。神道は祭事や催事、また歳時における先導的な役割を担っていたとすればある程度は理解できる。

この逸話は推理小説のプロットに使えるかもしれない。まず順を追って事件(?)のあらましを書き出してみよう。

まずは、親鸞聖人が罪一等を許されることとなった。この年に元号が変わっているので、恩赦かもしれない。誰が知らせに来たのだろう。都からわざわざ使いが来たのか、とりあえず、建暦元年(西暦1211年)に聖人は越後で娶った女房とともに晴れて自由の身となる。この建暦元年には年表を見ると二人の間には男の子が生まれている。親鸞聖人にとっては最良の年だったことだろう。

鳥屋野の草庵(現:西方寺?)から信濃川を横切ると山田の集落へつく、当時は「合子の里」といったらしい。そこで熱烈歓迎で、村人たちが手作りの料理やら、酒やらを持ち寄っての宴となる。場所はなにか催事があればいつもそうしているように、村の神社を使えばよい・・・ということになったのだろう。当時としては現在の公民館のような役割も持っていたと考えられる。

そこで聖人は木に袈裟をかける。この点は見逃せない。このことにより、後世に木が重要な役割を担うことになる。
焼鮒が生き返るというのも、実際はその場で焼いていたので、生焼けだった。鮒にしてみれば半死半生の状態で、聖人はそれを見て哀れに思い。(今なら救える)と思い。鮒を助けたのかもしれない。また、すでに鮒が成仏していたとしても、神社の境内にある池のこと、底まで水が透き通っていたとは考えにくい。そこで、ちょっと鮒を手にとって、まだ生きているようなしぐさをして、池に放って「ほーら生きかえたでしょう」と言えば、周りは親鸞聖人の言葉を信じないものはいない。鮒はただその屍を池の底に沈めただけだとしてもだ。
池なら他の生物も当然いるだろうし、鮒は淡水魚だからこの池に別の生きている鮒がいてもおかしくない。別の鮒をさして、ほーらあれが今の鮒です、と言えばそれでいい。本物は池の底だ。

また、一説では池ではなく、神社の「御手洗」という説もある。神社の入り口付近にある手を洗う(清める)中には湧き水を利用しているものもある、石でできていて水がいっぱいに張ってある流しのようなもの(?)。その脇に木が生えていて、それが袈裟をかけた木というわけだ。この説では、鮒は木の根元に隠れたとある。いずれにせよ消息は不明だ。

600年近くたってから、その木は大風(台風?)で倒れる。倒れた木はそのままにしておくと危険なので、切ってしまえということになったのだろう。あるいは、通路などを塞ぎ邪魔だったのか、折れた部分が露出して本当に危険だったのかはわからないが、とにかく切ったところ、例の基盤が出てきた。私はこの話を聞いた時、真っ先に金太郎飴を思い出した。もっといっぱい切って置けばよかったのに・・と思うのだが、多分切った両端から一枚づつしかでなかったのだろう。

何故、600年もたってから出てきたのか不思議だが、その像は「そう見れば、そう見えなくもない」 という代物なので、鮒は実はゾウなんだよ、またはカブトムシなんだといっても私は信じたかもしれない。親鸞聖人像の方は焼けてしまったので、もう本物は見ることはできないが、画像で見る分には、後世でそれらしく書き換えられた、と考えてもいいような気もする。

この発見に関しては、実は公のお墨付きがある。当時のこの地は新発田(しばた)藩の管轄で、噂があまりにも広がったため調査をしている。しかし、調べようがないので、新発田藩奉行所の星村治兵衛なる役人が、怪しい形跡なしと朱印まで押して返してきたそうだ。調べてもわからんし、ま、判を押しておくから、おまえら管理しておいてくれ、こっちで預かっていて祟りでもあると困るしぃ…じゃなかろうか。

さらに150年後の昭和になってから隣家よりの類焼により親鸞聖人像の方は消失してしまう。

合子(新潟市山田)の山王宮は現「新潟ふるさと村」の後ろあたりだそうで、それは明治29年の河川改修以前の話だ。今は跡形もないだろう。いつの世でも役人はろくでもないことをする。

□後記

田代家(代々山王神社の宮司の家柄か?)は現存しているそうです。ただし、ご近所ではないらしい。焼鮒の像も伺えば見せていただけるのかもしれないが、郷土史家を目指しているわけでもなく、ただのwebの素材として伺うには理由が乏しい気がして、それ以上の詮索はやめにした。

ただ、石碑は何の意味があるのだろう。しかも向かって右側に何度か傾いている。写真上、撮りづらくてしょうがない。それに、どうやら、ここがその場所と言うわけでもなさそうだ。そばに松の木があるが、これがいかにも「その木」であるような錯覚を起こさせる。説明書きひとつない。場所を探すにも近所の人に聞いてもよくわらなかった。最後に行った交番のおまわりさんが場所を教えてくれた。

七不思議の中では一番歴史推理小説のプロットになりそうな逸話であると思う。いつか、題材としてショートストーリーなぞ書いてみたいものです。