まずは、親鸞聖人が罪一等を許されることとなった。この年に元号が変わっているので、恩赦かもしれない。誰が知らせに来たのだろう。都からわざわざ使いが来たのか、とりあえず、建暦元年(西暦1211年)に聖人は越後で娶った女房とともに晴れて自由の身となる。この建暦元年には年表を見ると二人の間には男の子が生まれている。親鸞聖人にとっては最良の年だったことだろう。
鳥屋野の草庵(現:西方寺?)から信濃川を横切ると山田の集落へつく、当時は「合子の里」といったらしい。そこで熱烈歓迎で、村人たちが手作りの料理やら、酒やらを持ち寄っての宴となる。場所はなにか催事があればいつもそうしているように、村の神社を使えばよい・・・ということになったのだろう。当時としては現在の公民館のような役割も持っていたと考えられる。
そこで聖人は木に袈裟をかける。この点は見逃せない。このことにより、後世に木が重要な役割を担うことになる。
焼鮒が生き返るというのも、実際はその場で焼いていたので、生焼けだった。鮒にしてみれば半死半生の状態で、聖人はそれを見て哀れに思い。(今なら救える)と思い。鮒を助けたのかもしれない。また、すでに鮒が成仏していたとしても、神社の境内にある池のこと、底まで水が透き通っていたとは考えにくい。そこで、ちょっと鮒を手にとって、まだ生きているようなしぐさをして、池に放って「ほーら生きかえたでしょう」と言えば、周りは親鸞聖人の言葉を信じないものはいない。鮒はただその屍を池の底に沈めただけだとしてもだ。
池なら他の生物も当然いるだろうし、鮒は淡水魚だからこの池に別の生きている鮒がいてもおかしくない。別の鮒をさして、ほーらあれが今の鮒です、と言えばそれでいい。本物は池の底だ。
また、一説では池ではなく、神社の「御手洗」という説もある。神社の入り口付近にある手を洗う(清める)中には湧き水を利用しているものもある、石でできていて水がいっぱいに張ってある流しのようなもの(?)。その脇に木が生えていて、それが袈裟をかけた木というわけだ。この説では、鮒は木の根元に隠れたとある。いずれにせよ消息は不明だ。
600年近くたってから、その木は大風(台風?)で倒れる。倒れた木はそのままにしておくと危険なので、切ってしまえということになったのだろう。あるいは、通路などを塞ぎ邪魔だったのか、折れた部分が露出して本当に危険だったのかはわからないが、とにかく切ったところ、例の基盤が出てきた。私はこの話を聞いた時、真っ先に金太郎飴を思い出した。もっといっぱい切って置けばよかったのに・・と思うのだが、多分切った両端から一枚づつしかでなかったのだろう。
何故、600年もたってから出てきたのか不思議だが、その像は「そう見れば、そう見えなくもない」 という代物なので、鮒は実はゾウなんだよ、またはカブトムシなんだといっても私は信じたかもしれない。親鸞聖人像の方は焼けてしまったので、もう本物は見ることはできないが、画像で見る分には、後世でそれらしく書き換えられた、と考えてもいいような気もする。
この発見に関しては、実は公のお墨付きがある。当時のこの地は新発田(しばた)藩の管轄で、噂があまりにも広がったため調査をしている。しかし、調べようがないので、新発田藩奉行所の星村治兵衛なる役人が、怪しい形跡なしと朱印まで押して返してきたそうだ。調べてもわからんし、ま、判を押しておくから、おまえら管理しておいてくれ、こっちで預かっていて祟りでもあると困るしぃ…じゃなかろうか。
さらに150年後の昭和になってから隣家よりの類焼により親鸞聖人像の方は消失してしまう。
合子(新潟市山田)の山王宮は現「新潟ふるさと村」の後ろあたりだそうで、それは明治29年の河川改修以前の話だ。今は跡形もないだろう。いつの世でも役人はろくでもないことをする。